昭和49年08月11日 朝の御理解
御理解 第5節
「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」
生きた神を信心せよと。生きた神を信心する。生きたおかげを受けなければという事はどう言う事かというと、こちらの心が生きて来ると言う事。どんなに生きた天地を拝ませておるというても、こちらの心が枯れておってはおかげになるはずはありません。心が生き生きとしている。心が生きてくる。お許し頂いて感動いたしますね、そういう感動すると言う事は心が生きておる証拠。だから感動の薄い人、感動のない人はおかげが頂きにくい、頂けないと言ってもよいかもしれませんね。
色々と信心修行をさせて頂いて、心がいうなら弾んでくる、生きてくる。生きたものと生きたものの出会い、それが金光様のご信心。いわゆる天地に手を差し伸べてどうぞ助けてくれというても、差し伸べておる手そのものが枯れておったのでは、例えば植物に植物にお水がいっていない。形だけ( ? )枯れておるとしましょう。枯れておる木が手に手を差し伸べてどうぞ助けて下さいといっても神様とてもどうしようも、それこそ実らせようも咲かせようもなかろうと思うのですね。
だからまずは自分の心が生き生きと勿論それが信心の喜びに開けてこなければならない。いくらお参りしてもいくらお話を頂いても、しかたなく聞く人があります。感動が伝わらんのですね。それこそカエルに水をかけるようなものです。シッパリマーコしている心の状態を言いますね。かえるに小便かけたようだと。それでもうお話をしたらです、それこそ、コンクリートの上に水を蒔くように一つも入らない人があるね。
それではやはりね、これまで神が物を言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても片便の願い捨てとこう。だからいかに神様がものを言うて聞かせて下さっても、それをただ聞いておるだけで、心の中に喜びも湧かなければ感動もないというのでは、聞いていないのと同じです。ですからね、お話を例えば頂くというする前の心がけがいかに大事かと言う事が分かります。それでも一心を立てるとわが心に神がござるからおかげになる。それはいわば鰯の頭の信心。
だから生きた神を信心せよ、天も地も昔から死んだ事なしと仰せられるようにね、もうれっきとした神様金光大神のお取次ぎを頂いて願わせてもらう。それを金光大神が取り次いで下さる。神様に氏子の願いを取り次いで下さる。また神様の願いを、神様の思い、神様の願いをまた、氏子に取り次いで下さる。お取次ぎを願い、お取次ぎを頂くというその事をここでは、ものを言うて聞かせよとこう仰せられてある。そのものを言うて聞かせると仰せられるけれども、このことをこのことがだめなんだね。
私共が願いをする、また神様がまた、それに対するご返事を下さる。もの言うて聞かせて下さる。ああそうですかというただけでは、それこそカエルに小便かけるのと同じ事。生きたお参りをしておるけんおかげのほうもやっぱり、びくともせん。おかげのほうも動かない、まず、生きた心を持ってしなければ天地には通わない、生きた働き、その心を生き生きとする為にお互いが修行をしなければね。
今までは例えば水をかぶったり、断食をしたりと言う事も、確かに自分の心をその時だけを生かす事の出来れる、一つの方法です。けれどもそういう例えば、火の行水の行というかそういう、表行的なものを、現在の合楽ではそれを、厳しくそれを差し止められた。いわゆる心行。それを、本当にその自分の心が例えば少し乱れておる。乱れておりますと、自分の心を整えようと勤めめす。整えようと勤めると言う事は、教えを本気で行じると言う事なんですよ。
例えば心が例えばどう言う事かと、なら私が最近申しておりますように、私の心の中に、家庭の中に極楽を現すとか、極楽に嘘やら悪やらがあるはずはありません。また汚いところやらもあるはずがない。と教えておられるでしょう。そこで例えばです自分の部屋なら部屋を散らかっておる。汚れておると思うたらです、ただ汚れておるからちらかっておるから、お掃除をするというただけではいけんのです。
本当に親先生が極楽に散らかったとこやきたなかとこはないと仰るから神様がああ教えて下さるからそれをさせて頂こうという気になるのです。自分が部屋が例えば散らかっておるなら、はわきもしょう。汚れておるなら、拭き掃除もさせて頂こう。不思議にそういう神がもの言うて聞かせていうて下さった事を実際に行じていこうという行じておるうちにです、この心が整うてくるです。不思議です。
私がいつも例を申しますけれども、私はお風呂を何回もシャワーを掛りますから、どんなに例えば心が乱れておった時でも、乱れておる時でもですお風呂に入って皆がろくそなかしております。石鹸はあっちやるお風呂はこう話しとる。それを一つ一つ実意丁寧にこうする事が本当だという信心をきちっとこうさせて頂く。いくら言うても聞かせたってんほっちらかしてから、一人でお掃除せんならんといったっちゃ何もならんです。私の修行をさせて頂く、修行をそこにおいてあるという気にならなければいけんです。
今はわいたらもうちらかしとる。今拭いたところをもう泥足であがっておる。それではもう(?)また修行をさせて頂く事がそこにあると言う事が有り難いと思うて拭かせてもらう、はわかせてもらう、親先生が親先生が極楽に汚かところはなかと仰るから、洗いもしょう拭きもしよう、磨きもしようという、たったそれだけの心を使うてもしそれを綺麗にしていきよるなら不思議に心が整うてくるです。
その整うた心がおかげをキャッチする。だからお風呂で(?)まだ綺麗好きの人がある。だから綺麗にしておるという意味だけじゃいかん。綺麗好きの人に限って人が散らかっておるのに腹がたつ。だからそげな事でおかげの頂けれるはずがないね。ですから問題は心がけると言う事なんです。心が自分の住居というものをです、極楽にふさわしい、親先生がああ仰るから拭くのであり、はわくのであるという、いわゆる神がものを言うて聞かせて頂くことを家庭に帰って行じると言う事です。
断食せんでもよか、水かかからんでもよか。教えをいうならば行じると言う事がです、昨日私が御祭り前に、不思議な事ですよね、昨日は御結界奉仕が午後からの奉仕が出来なかった。信心というものはそんなことであっちゃならんのですけれども、ここに座っておる時と、もうあちらに下がってからというたら全然心掛けが違う。する事なすことが違います。ここにおりますと、自分ながら自分の心が拝みたいような心が続いております。また出なかったらお取次ぎも出来ません。
ところが昨日は久富さんが朝から、大祭前の大祭たんびにこうやって部屋の模様が変わりましょ、置物から軸から全部変わるのです。それで一人ではとても出来ません。それから感覚的には皆で相談して、置き物一つでもこげんがよかろうかあげんがよかろうかと相談せんならん。昨日は由美子さんと(?)二階の蔵から色んなものをもってきて、ここにあれがあるよ、軸はこれがよかばいというふうにして、全部部屋に調度品からなんからか変わってしまいました。置物。
ですから勿論、まぁあのシャツ一枚で、すててこ一枚で、あの不思議にですね、ここに一生懸命専念させて頂いた時と、そう言う様な事にいうなら専念した時、専念の具合がいかにお参りをしたとか、御理解を頂くとか、例えば朝参りをするとかと言う事が大事だと言う事が分かります。朝参りとか昼参りとか違うでしょうが。心の状態ね。御祈念をさせて頂いておる時と、他のことをしよるときとは違うでしょう。それがいうなら凡夫だから仕方がないといや仕方がないのです。
けれどもいうならば、乱れておるからというて、乱れっぱなしではいかんのです。こんなことではいかん、こんな事ではいかんとこう思うのです。そう言う様な事にだからもう、夕食も六時過ぎました。それで月次祭の時には必ず、両親のところでお食事を一緒にさせてもらいますから、お神酒も頂きます。久富先生と私と、繁雄さんと、それから両親と一緒に頂く。
御神酒を頂きますけれども、時間がねもう丁度四時半五時ごろ、一時間ばっかり、早うお食事をさせてもらうと夜の御祈念なら夜の御祈念の時間にお月次祭ならお月次祭の時間までには酔いが覚めて丁度良い所なの。昨日ちょっと酔いが覚めとらんじゃった。御祭りさせて頂いた。ですからどうもそのはあ、今日はどげなお話をさせて頂く何かその、有り難いものが出てこない。ヒントがある、いうならインスピレーションがなんとはなしにその、感じが薄くなっておるね。
そこで今申しますように自分の心を神様に向けて、ほんの些細なことであるけれども、それをただ一生懸命行じるなら行じる事に勤めさせてもらう。そして、御祭りが済んでから皆さんにお話を聞いて頂こうという時にです、どう言う事から御話しさせて頂くかと思うたら、私の心の中にまだ酒気がある。いわゆる酒気がある。したら神様がね「三味線太鼓」と頂く。もう神様というかたはその時その心に合わせて下さるのですよね。だから昨日の御理解の冒頭が「三味線太鼓」でした。
本当にこの有り難い信心、この有り難いこういうおかげの受けられる、この事を本当にもし許されるなら、三味線太鼓を叩いてからで、も弾きながらでも宣伝して回りたいというのが。昨日夕べの御理解の冒頭でしたね。それからまあ、あれだけの御話しがちゃんと出てくる。もう本当にこの自分のね、心を神様にどんな場合であってもどんなに心が乱れておるという時であっても、その乱れた心を乱れっぱなしじゃいけん。それで今申します、例えば(?)ね。
親先生が極楽にきたなかったところはないと仰るからだから、だからはわきもしよう、磨きもしようという気なると、心が整うてくる。何故か神がもの言うてくれたことを、聞くからです。神がもの言うて聞かせて下さっても、それを聞こうともしなかったらです、それこそカエルに小便まりかけた、ごたる顔どんしとるような事では、おかげになるはずはないですよ。御話しが心の中にびんびんと入ってくる。成程成程と思う。思うと。次には感動が湧いてくる。信心ちゃ何と有難い事であろうかという、その心で生活に取り組む。取り組むのです。
昨日丁度そういうご用をさせて貰いよる半ばに日田の竹野さん。ここのご神前の方を立てられました神大工さんです。間もなく80です。今日あの草野の(?)有名な(?)宮大工さん達の見本になるようなよい宮大工さんです。だからそのあちらの話しを少し私から聞きたい。どのくらいの人間が(?)御話ししてあげたのですけれども、あぁ言う有名な立派な御宮さんを持っておられるのを、あなた見に行かれたことがありますか、いいやあります、けれども見に行くたんびにです、見所が違うち言われる。
感心しました。いかにその大工さんがもう覚えたことのいっちょ覚えだけでなく、精進しておられるかと言うことが分かるでしょうが。見にいくたびに見所が違うといわれます。昨日丁度あの共励殿でしたから大黒様あの、ケースに入ったあれは、これは二十万円がと位値打ちがあります。あれは一刀彫これだけの大黒様を作るちゃ大変なこれは名人がつくったのでしょうと言われましたが、この頃大黒様ブームで合楽で言いよりますから、あれをちょっとね、安置させて頂いております。
いわゆるあの、ご本部のご建築を金光様のお宅を全部六年半かかられたそうです。ご本部におられたそうです。ですから金光様から短冊やら、いろいろ書いたものを色々頂いておられる。ここに今度は嫁がお参りしてくる。あちらの弟息子さんの奥様がここに参ってくるあの竹野さんが姑になるわけです。例えばですいうなら、合楽の御理解がいつ頂いても御理解五節なら御理解五節を頂いても頂いても、どれだけ二十五年間頂いておりますけれども、一遍だって同じ事はないです。
私の心がいかに新なものを求めて行っておるかと言う事が分かるでしょう。新な新たなそれだけのびた心で見ておるから、もうその御教えの見方が感じ方が違うのです。皆さんでもそうでなからなければならんです。頂き方がですね、もう頂く度に違う味わいが頂けれるという、そういう味わいというものがです、心を生かすことが出来る。心が生き生きとしてくるのです。
御理解をいや、御取次ぎをお願いすると同時にお取次ぎを頂いて帰らなければいけない。それを行じるところから、心が生きてくる。その生きた心で天地を拝む。生きた神を信心せよ、天も地も昔から死んだ事なしという信心がそこに頂けれる。此の方が祈るところ天地金乃神と一心なり。もう天地と一体。あいよかけよというのは神様と私共がです、あいよかけよの働きをあいよする時に一身になっております。素晴らしいでしょう。最近言われます合楽を現すという時には合楽を現せとこう行っている。
合楽を現すと言う事はもう、天地金乃神と一身になっての働きがそこに出来ておるのです。昨日吉井の熊谷さんの例を話しましたね。御役に立ちたい御役に立ちたいといつも思わせておればです、神様が必ずお役に使うてくださる、その使われる時が天地金乃神と一身の時です。だからそこに奇跡が起こるのです。今まではものを言うて聞かせる所はなかった。それこそ鰯の頭も信心からと言う様な事でも信心と思うておった。
ところが段々御道の信心を分からせてもろうて、神様がものを言うて聞かせて下さる事が分かってそれを神様の生きた事としてそれを大事に尊んで頂くという生き方になったら、心が生きてきた。心がいわば、感動が湧いてくるようになってきた。そこからですね、天地金乃神様を拝ませて頂く者の幸せまたは天地と共にある神様といつも共にある。我神と共にあるというような心の状態が開けてくる。人間ですから、時には汚れたり乱れたりもするけれども、その汚れたり乱れたりするところがです。
もう例えていうならば、ちょっと下駄一つ揃えると言う様な事からでも、例えば散らかっておる所を綺麗にする、そこには塵一つを拾う瞬間にこの汚れた心というか乱れた心が整うて来る程しの素晴らしい事なんだ。教えを行じると言う事は。だから私共が天地と一身にある。けれども乱れておるだから外れておるけれどもそこに、次のもの言うて聞かせてくださってあったことを行の上に現していくという生き方からです、天地金乃神と一心なりと自分でも思われる程しのおかげを心に感じることが出来る。またおかげを頂き現していくことも出来るのですね。